どうも電電です.
前回の
これからプログラミングを始める君へ - 電電のブログ
がそこそこバズった次にこれを書くことになるのは非常にあれなんですが,そろそろ書き残しておきたいし書きます.
ちなみに今回のブログはアドベントカレンダーの内容です.
adventar.org
前回のブログが未来にむけた希望のある記事だとすれば,今回の記事は過去にあった絶望の記事です.
そこのところを注意して読んでください.
ただ,これはこれからの日本において頻発する事象ですので,何か得るものもあるかも知れません.
これは4年前,僕が大学2回生だった時のお話です.
僕は大学の電気電子工学科という結構忙しい学科に所属していました.
毎週実験があり,そのレポートがを出さないと留年というものです.
卒業するまでに3割くらいが留年や,休学をすると言われている学科でした.
あと部活に入っていたりしました.
僕は実家から1時間くらい電車で大学に通いつつ,レポートと部活を毎日こなすといった感じでした.
さて,うちの家の家族構成は父,母,姉,僕の4人家族だったんですけど,この時点で,父はガンにおかされていました.
父ががんだと言われたのはここから3年くらい前の僕が大学受験をするちょっと前の冬でした.
この頃からちょっとずつ悪くなりこの時がんはレベル4でした.
レベル4っていうと転移が始まっていてもう完治は厳しいとかのレベルですね.
元からアルコールを浴びるように飲み,タバコもかなりの量すうヘビースモーカーだったので,咽頭ガンと診断された時は,まあ妥当だなと思っていました.
父は普段から家族のことをあまり省みる人ではなく,僕が父と遊んだ記憶は実家に返った時の小学校の時くらいです.
なので,教育というか,親の姿は主に母の背中をみて育ちました.
また,僕は中学校,高校と学校の寮にすんでいたのもあり,僕にはあまり理想の父という姿が思い浮かびません.
父は結構いいところのサラリーマンをしていましたが,アルコール中毒がひどくなり,飲んでなければ手が震える.
癇癪を起こすなどどんどんひどくなっていきました.
父は癌を診断されてからも,酒もタバコも止めることはできませんでした.お医者さんからすれば言語道断であることは百も承知ですが,やめれるものではなかったようです.
もちろん家族は止めましたし,僕も酒を何度も止めたり隠したりしましたが,聞き入れてくれませんでした.本当に中毒って怖いものだと思っていました.
世の中にはアルコール中毒患者や,その家族による補助会というものが存在し,それに参加したりもしましたが,うまくいきませんでした.結局自分で止める意思がなければ,周りが助けても難しいと感じました.
また,がんがどんどん進行するにつれて,手術が必要になりました.がんの手術はがんの元を切除してから,薬物療法や,放射線治療によって,周辺の取り除けなかった癌細胞を殺し,転移を防ぐといったものが一般的で,父もそれを受けました.
ただ,咽頭がんの場合は,咽頭そのものを切除するのが普通らしく,通常の手術をうけると声が失われるらしいのですが,大阪にたまたま特殊な手術ができる方がおり,声を失うことなく手術ができました.
しかし,がんの手術を行うに当たって,ご飯が口から食べれなくなりました.どうやって栄養をとるかというと胃にカテーテルを通して,流動食を流し込んでいました.
この手術をうけた後からが特に大変でした.基本的に病院というものは手術が終われば,そのまま退院させられます.
病院は対処療法をするところであって,ケアを行うところは別だからです.なので,うちの家は在宅介護を家族でしていました.
何が大変かというと父はそうなってからも酒の魔力に取り憑かれ続けていたことです.
すきあらば,カテーテルに自分でアルコールを入れて,酒を摂取したりしていました.
また,手術を受けてから父は体力が衰え,自分で立つこともままならなくなっていきました.
最初は自分でたったり,トイレに行ったりできていたんですが,トイレに行っておおごけすることが増え,そのせいで余計立たないようになりました.
立つことや,動くことを避けるようになると,加速度的に体力がおちていきました.
こうなると介護することはとても大変になります.流動食の用意,容器の洗浄,着替え,おむつの変更,おむつの処理,寝返り....etc..etc
とても一人ではできません.うちの家では母が主に介護をやっていましたが,姉や僕ができることは手伝っていました.
ですが,みんなそれぞれの人生があって,それぞれのやるべきことがありました.
また,元からものを良く買う人だったのですが,がんになって,外に全く出れなくなったことで,買い物を良くするようになりました.
Amazonや楽天から,毎日コインや,エアガン,ライターなどを買うようになりました.
時には月に80万円使う時もあったようです.これにも結構悩まされました.一悶着もふた悶着もありましたが,
最終的に僕が父からパソコンと携帯を奪う形でこの問題は解決しました.
毎日毎日介護をやっていて思うのは,介護というものは,今までできたことができなくなり,感謝はなく,病気のように良くなっていくという希望がありません.
今日も明日も,明後日も続いていく連綿とした労働です.
もちろん介護する方は,今までの生活の上に介護が乗っかる訳で,それによって諦めなければならないことや,辛いこともあります.
一方で介護される方は,介護されることに慣れていってしまいます.介護されることに慣れてしまうと今まで当たり前にされていたことが,できなくなると文句を言い出してしまうものです.人間って愚かですよね.普段お世話になっていても当たり前だと思ってしまうんですから.
父は体がもとから細く,流動食になってからはどんどん痩せこけていきました.身長は175cmほどあるにもかかわらず,体重は40kgを切り,骨と皮のような姿になっていきました.それでも胃にカテーテルが入っていることと*1,もともと持っていた体が丈夫すぎて死にきれずにいました.
途中から,できることがほとんどなくなった父はボソボソっと死んでもいいと言っていました.
父のこんな姿を見ることになることは結構きましたし,家の中で一番舵取りをしていたのが自分だったので,自分がしっかりしなきゃみたいなのはずっとありました.
くしくも,この時期の重大な家族会議の連続で僕は問題の見通しをする力と,会議を進める力みたいなのが養われた気がしています.
さて,二回生の時点で,介護は2年くらい続いていました.咽頭周りの手術をしたせいで,父は自分のたんを飲み込むことが難しくなり,また,肺と胃とを分ける部位の筋肉が衰えていきました.こうなると自分の唾やたんが肺に入り込んでしまい,肺炎になることがふえました.肺炎になるとうちの家では対処できないので,救急車を呼んで入院することが良くありました.僕も学校がない時に救急車を呼んで同伴者として乗ったことがあります.入退院は10回を超えたり,月に二回入院することもざらにありしました.
2年生の冬に入る頃から,父の介護を主にしていた母が少しづつ動けなくなります.
これはおそらく先の見えない中で,ずっと介護をすることによる心身の疲れが主な原因だと思いますが,最終的に全く介護ができなくなってしまいました.
それからというもの,僕と姉でなんとか介護を行っていました.姉は幸い(?)アルバイトの生活だったので,それを削ることで時間を生んでいました.
僕は大学にいっていたので,土日や,大学と部活が終わってから夜のご飯の用意をしたり,おむつを交換したりしていました.
正直,朝から電車のって,登校して授業受けて,レポート書いて部活いって介護していた時は地獄でした.心も体もどんどんすりへっていきました.
でもそれ以上に母は擦り切れていました.
12月に入ってから,また父が入院することが二回ほどありました.
この頃になると,起き上がることもほとんどなくなり,お見舞いにいってもあまり喋れるような状況ではありませんでした.単語をちょっとずつ拾って会話したり,していました.
そんな中新年を迎え,1月の3日に父がなくなりました.
死目には間に合わず,すでに死んだ父と会うだけでした.
そのとき持った感情は,悲しみと安堵でした.正直なところ安堵の方が大きかったかも知れません.
批判する方もいるかも知れませんが,僕は自分の父親が死んで安心しているところがありました.
またそんな自分の感情に驚きつつも自己否定に陥ったりしました.
けど,持った感情は嘘偽りない安堵でした.それだけ介護というものは辛く厳しいものですし,少なくとも僕にとっては,そうでした.
現在介護している人,これから介護しないといけない人へ言えるのは,できるだけ外の力を借りましょう.
自分だけで解決できるものだと思わないことが大切です.
あなたが介護をし続けることができないのはあなたのせいでも患者のせいでもありません.
そこで自分を否定しないでください.
さて,父がなくなったあとは葬儀の手配をしたり,死亡届を銀行に届けたり,授業の欠席連絡などなどをしました.
あまり知らない方が多いと思いますが,銀行に死亡届をだすと煩雑な手続きをするまで引き出しが一切できなくなります.
このため,家主が死亡した際は,先に葬儀代と,当面の生活費を確保した上で引き出しましょう.(どうにかならんのかね)
あと,ケータイの契約主変更をする時に死んでるのに契約主様をつれてきてくださいみたいなこと言われたりしますが,ゴリ押ししてください.(これもどうにかならんかね)
この父が死んだ時に,人は死ぬんだし,どうせ死ぬならせめて好きなことやって死にたいなあと強く思いました.
あと単純に心と体がかなり摩耗して,死んでました.あの時の僕の顔マジで死人みたいだったと思います.
他にも,保険が色々と降りてきて,生協とかからも保険金がもらえました.ここら辺のお金を集めると50万くらいいきました.
どうせ今から学校行っても全部が嫌になりそうだったので,僕は旅に出かけることにしました.
元から世界を回ることには興味があり,お金もある,家族の許可も取れるのであれば,今以上のタイミングは人生においてないと思って,教授と面談し,許可をもらい,休学届を出しました.これにて京都大学工学部電気電子工学科を一年休むことになりました.
どうして世界一周したんですか?みたいなことをよく聞かれるんですが,別に自分を見失ったからでもなく,自分探しの旅でもなくその時の,自分に必要だったからなだけです.ただ絶望を経験して,それから逃げたかっただけで崇高な目的があったわけではありません.
こうして,4月からいく国を決めて,僕は一年の世界旅に出かけたのでした.
なんかこう時間軸が結構飛び飛びですね.
いろんなエピソードやここにかけないこともいっぱいあったんですが,これだけ告白できただけでも十分な前進だと思うので,ここら辺でやめておきます.
最後に
介護はこれからの日本で絶対に問題になることです.
もしこれからあなたが,介護という問題に直面した際には,介護は辛く,心を簡単にむしばむものだと心に止めておいてください.
自分の父が,母親が,祖父がおばあちゃんを介護している時にもし,早く死んで欲しいと思ってまっても,それはあなたが弱いからではありません.
患者が悪いわけでもありません.それだけでも心に止めておいてください.
そして,できれば自分だけで抱え込まずに外の力を借りてください.
ここまで僕の長文,駄文を読んでいただきありがとうございました.
前回よりもまとまりがない文章になったと思いますが,この時の時系列の記憶がぐちゃぐちゃなのと,感情がゴチャっとしてるので許してくだせえ.
今回は以上です.
ほなまた
電電